私の責任という言葉の重さはどのくらい

このところ、負けるたびに石井監督が口にする「私の責任」という言葉。


監督という役職は勝てば選手のおかげ、負ければ監督のせいと言われる過酷な役どころだが、そう言われるだけの責任はあり、「私の責任」というのは当たり前の話で、今更言うべきことではない。


にもかかわらずこれだけ口にして、その言葉の重みはどれだけのものがあるのだろうか。


最終節後のセレモニーでの挨拶。自分はスカパーから早々とチャンネルを変えてしまったので、全文は聞いていないのだが、現地ではかなりのブーイングがあったと聞く。


思えば、同じようなことを言って(同じ台詞だったかは覚えていない)辞任するとまで言い、ひと悶着あった事件。あの時にすっぱり身を引いていればその後の成績がどうあったにせよ、ブーイングは起こらなかっただろう。


負け続けているのを石井一人に押し付けるのも違うが、ごたごたの騒動を引き起こしたのは自身であり、この先、天皇杯、チャンピオンシップで2冠を獲るかもしれないが、潔く、そして、今度こそきっぱりと、今季限りで辞めます、といった「責任」のある言葉を言ってもいいと思う。


今、繰り返し口にする「私の責任」は、怒られたからとりあえず謝っておく、「ごめんなさい」と同じように聞こえ、覚悟のようなものが感じられない。


何故、そのように感じるかと言えば、チームの雰囲気の悪さ。


人柄がいい、という長所?が一番最初に言われる石井のことで、おそらく本当にそうなのだろうし、別に人柄や人となりを否定するつもりはない。


ただ、監督という点で評価するならば、将来的なビジョンも見えないまま、目の前の試合にも勝てないまま、現時点では昨年のナビスコ杯(現・ルヴァン杯)タイトル、ファーストステージ優勝という実績があるにせよ、来年も観たいと思うサッカーではない。


人柄だけで言えば、暗黒時代のセレーゾだって気のいいおっちゃんであり、監督という面を切り離せば、なんら問題がない人物だった。


結果を出してこそプロであり、その点で言えばまだ可能性がふたつ残っている時点で論じるべきことではないのかもしれないが、「私の責任」という言葉の軽さに不安を感じずにいられない。


とりあえずのごめんさないでないということを、まずは週末の天皇杯で見せて貰いたい。

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