どれだけ変わっても

昨年、読んだ本のなかで印象に残っているやり取りがある。


彼、彼女、第三者の登場人物がいて、死んでしまった彼女の魂を元に復元した、そっくりなコピーを愛せるかどうかというもの。


すぐに物事を忘れてしまう年齢になったので完全に覚えていないが、だいたいこんな感じ。


「どれだけ変わろうとも彼女のことを愛している」

「どれだけ変わっても?」

「ああ」

「彼女が記憶を失くし、君への愛情を失くし、性格が昔と一変したとしても?」

「それでも彼女であることに変わりない」

「姿が変わり、声も変わり、名前さえ変わったとしても?」

「魂が彼女ならば、それは彼女だ」

「魂が彼女であるということを証明するものは何ひとつなくても?」

「僕がそれを覚えている」

「それはもう君のなかにある『彼女』であり、本当の彼女ではないのじゃないかい?」


これに対して彼はそれでも彼女を愛するという行動を取ったのだが、結末はざっくり言うと、彼女が消えてしまって、彼の気持ちの証明のようなものは果たされないままうやむやになって、なんだかすっきりしない終わり方だったのだが、このやり取りは考えさせられるものがあった。


誰か・・というか何かでもいいが、好きになったりする時はほんのささいなことだったりして、それが積み重なるうちに「全部好き」みたいな状態になったりするものだが、とはいえ、全部好きなんてことはそうそうあるわけでもなく、どこかにラインは存在している。


対象が好きになった頃と変わってしまっても好きでいられるのは、いい方に変わったか、あるいは累積したポイントのようなものをちょっとずつ消費しながらまだプラス域にいるか、そういうことなんじゃないだろうか。


身も蓋もない言い方をしてしまうと、相手が記憶を失くしてしまい、それでもまだ好きというのはわかる。しかし、それに加えて姿かたちまでも変わったとしたら、どうやってそれを相手だと判明出来るのだろう。


どのあたりに相手を相手だと判別出来るラインがあるのかは人によって違うし、もしかしたら本当に「どれだけ変わっても」好きなままでいられる人もいるかもしれない。


ただ、上に書いた第三者はこう言う。



「どれだけ変わってもいいというのなら、彼女でなくても構わないんじゃないかい?」



刺さる言葉だった。


何か譲れないものがあるからこそ好きになれるのだし、それが失われてしまったら気持ちが変わっても不思議じゃないし、変わらないとしたら第三者の言うように本当にその人である必要はないのではと思う。


鹿島は最近、急激な変貌を遂げている。かつては新入団した選手を根気よく面倒を見て育て、一体感のあるクラブだった。


それが今や2~3年で見切りをつけて放出し、よそから即戦力を獲得してきては主力を手放す。時代の流れなので仕方ないとはいえど、ファミリー意識というよりは「身内に甘い」と感じられるような人事もちょいちょい見られ、芯がなくなりつつあるように感じられる。


ジーコはTDとしてクラブにいるとはいえ、不動のキャプテン小笠原も引退した。


鹿島の魂はまだ、強く残っているだろうか。

このブログの人気の投稿

2025第20節広島(ホーム)戦

2025第16節川崎(ホーム)戦

2025第4節FC東京(ホーム)戦